ことぶきのゆらり歴史

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古文書講座入門編☆3回目

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神奈川県立公文書館で開催されている、古文書講座入門編 · 3回目です。



公文書館とは?初回と2回目の記事はこちら↓
kotobukirekishi.hatenablog.com
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今回は、幕末の横浜鎖港談判と使節団派遣の資料を読む というお題でした。

文久2(1862)年の生麦事件発生から始まり、幕府が鎖港談判使節団を派遣するに至るまで、どのような歴史的流れがあったのか、5つのテキストに沿って勉強しました。


まず 生麦事件というのは、文久2(1862)年8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)で、薩摩藩島津久光の一行に乗馬のまま乗り入れてしまった英国人商人を薩摩藩士が無礼討ちにした事件です。
これにより英国人1人死亡、2人が重症を負いました。
当時の武士の世界ではそれが常識の結果だったのですが、当然ながら国際社会では認められず、重大な問題となりました。また、薩摩藩士にとっては「当然の無礼討ち」であったとしても、その頃の時代の風潮では「攘夷」と見られる傾向もありました。

この事件に際して幕府との交渉にあたったのは、イギリスの臨時公使ジョン・ニール。
それまでも度々「攘夷運動」の標的になっていたイギリスは、いい加減にしろ!とばかりに、まず日本政府=幕府に圧力をかけてきます。外国からここまで高圧的な態度で出られたのは、日本にとってこれが初めての事でした。
この時の公文書、「英国軍艦よりの書翰」というものが、1つめのテキスト。
イギリスからの通告を和訳して記された文久3(1863)年2月19日付けの文書です。
内容としては、「事件を起こした藩士を全員捕らえて英国人立会いのうえ斬首しろ」「幕府は賠償金50万ポンド、薩摩藩は3万ドル支払うこと」「期日までに了承しなければ即刻攻撃を開始し、江戸を焼き払う」といった事が書かれています。
今回はほとんどが漢字。そして、ところどころにカタカナが入っています。「ホンドステリシリ」(ポンド)とか「トルラル」(ドル)とか。

この生麦事件発生直前の文久元(1861)年、幕府は修好通商条約の規定による江戸·大坂·新潟·兵庫の開港開市の5年延期を願い出るために、西欧諸国に遣欧使節団を派遣していました。
そして、交渉を成功させていた頃だったのです。
そこにきてこの事件です。
幕閣の人達は頭が痛かったでしょうね…^^; しかも当の薩摩は「だから?」って感じだし。

当時の日本人に、「日本」という“国”としての意識があったのか、また、幕府の人達にとって薩摩藩士が「国民」という意識があったのか、、、どうなのでしょうね、きっとなかったですよね。
頭抱えてため息ついたでしょうね^^; それを想像すると同情してしまいます。

この時、将軍家茂をはじめ幕府の幹部メンバーが上洛中で江戸におらず、残された幕閣はイギリスからの要請を日本人らしく(?)のばしのばししながら対応します。が、ギリギリになってけっきょく10万ポンドを支払いました。
これは戦争回避の決断だったのですが、攘夷を唱える藩には“腰抜け”とうつり、討幕への流れを加速させるきっかけとなったのでした。
ちなみに薩摩藩はイギリスの要求をはねのけ、薩英戦争へと突入しました。


孝明天皇の攘夷勅命、そして勢いを増す攘夷運動に国内情勢は揺れに揺れ、この後朝廷と攘夷派の圧力に頭を悩ませた幕府は横浜鎖港という無茶な交渉に踏み出します。
これが横浜鎖港談判で、この時に将軍家茂が交渉役担当者に出した委任状が、今日2つめのテキストです。
知らなかったのですが、この時代の辞令(将軍の朱印がおされたもの)は1枚しか存在しておらず、本人には見せるだけで渡すことはなかったそうです。
そして将軍の御朱印はとても強い効力があるため、悪用を防ぐ目的で印の部分だけきれいに剥がされたり切り取られたりして保管されていたそうです。
なのでこの文書も、その部分だけ四角く空白でした。

この時任命されたうちの1人、池田長発という人は幕末のイケメンとして有名で、いろいろなところに写真が載っているので目にした事がある方も多いと思います。
袴にまげ姿のお侍さんの写真を見ると、どこか遠い世界の人達のように感じるのですが、この池田長発はちょっと斜に構えたポーズといい表情といいなんとも現代的で、まるで最近の若者がお侍のコスプレをしているようです。

古文書テキストはそれから、横浜のいくつかの村役人が連名で出した文書と、池田長発がさらに正使として使節団として派遣された際の監察使 · 河田貫之助宛ての任命書、と続きました。

この鎖港談判使節団ですが、当初の予定ではヨーロッパを回るはずでした。
が、まずフランスに到着した一行は、その時点で交渉不可能と判断してそのまま日本に戻って来てしまいます。
この時の池田長発の年齢は28歳。
長発は帰国してから、横浜鎖港なんて言ってる場合じゃない、むしろ積極的に開国して貿易を行い、西洋列強と対等に渡り合えるような国力をつける必要がある、と主張しました。
しかし当時の日本国内でその意見が受け入れられるはずもなく、蟄居させられる顛末となってしまうのです。
有能な若者だったであろうになんだかもったいないですね。


今回、くずし字解読についてよりも時代背景の話ばかりしているのは、先生のお話がとっても面白かったからです(^^) 
そして、後半あっさりになっているのは私の集中力がもたなかったからです^^;

次回はどんな事を教えてもらえるのかな〜!とっても楽しみです♡